エディター・小澤匡行がスニーカーにまつわるギモンに答える月いち連載【教えて! 東京スニーカー氏】。第19回はトレンドの「ダッドシューズ」について。
当時、エア入りのスニーカーが全盛の中、エアをいっさい使わないストイックなB級スニーカーの「プロトン」は、1994年にアメリカでリリースされた日本未発売モデル。ポリウレタンを使っていないおかげで加水分解の悲劇にあわない棚からぼた餅スニーカーです。ネイビーとスカイブルーの組み合わせがかっこいいのかもしれません/私物
ノームコアからダッドコアへ。もはや造語のレベルも秩序がなくなり、突拍子もない言葉がアリな世の中になりつつあります。業界内ではかなり大きな渦になっているこの「ダッド」について、今回は自分なりの見識と思い出を。
まず前提として、僕も仕事から離れたらただのダッドです。それなりに社会性の問われる場で過ごす休日にダッドシューズを履くには、よほどほかでセンスを表現できないと、足元がおしゃれであることを納得させるのはすごく難しい。
そもそもダッドとは世間一般の父親のもつ「ダサイ」感覚の言い換え。これを楽しめるのはクローズドな世界で生きる雲上人の特権とも思っていました。ブームの立役者はバレンシアガのトリプルS ですが、ファッションとして最初にダッドを提案したのはラフ・シモンズとアディダスとのコラボ「Ozweego 1」と記憶しています。現在の「Ozweego 3」はダサさに磨きがかかることはなく、昔感じた近未来的ないなたさもなく、配色もパーツもバランスが整ったように思います。「Ozweego 3」と話題の「YEEZY DESEART 500」にも共通した要素を感じますが、僕にとってダッドシューズの条件は、曲線のパーツが何層にも重なり合っていること。
そうなると、ミニマムな最新のニットシューズは除外され、’90年代後半風味のデザインが生き残る。エア マックス95や96、97、エア マックス プラスも該当するのですが、当時少しでも流行の日の目を浴びたモデルは対象外。ダッドの世界に入り込むには面倒なしきたりが多いように感じます。
1994年の夏、高校1年生の僕は円高ブームを経験し、海外に行くとスニーカーが激安で買える思い込みがあり、LAに出張に行く父に欲しかったエア マックス スクエアが掲載された雑誌の切り抜きを渡してオナシャスしました。そのとき父が「フットロッカーとかで見かけたらな」と自信なさげに答えたのを今もはっきりと覚えています。ワクワクしながら帰国を待ち、スーツケースから取り出した瞬間に現れたのが写真の「プロトン」でした。
プロトン??? 「AIR」の表記すらないこの靴を、どうして買ってきたのか理解に苦しみました。父の言い訳をうのみにすれば、店員に聞いたけど売り切れたと言われて、その代わりに買ったとか。こんなダサい靴を履けるはずもなく、実家の靴棚に20年デッドで眠っていたのです。若者のおしゃれに興味のない父が、世の中的にイケてる靴の写真を見よう見真似で買った「プロトン」はデムナ・ヴァザリアの感性よりも鋭すぎる正真正銘のダッドシューズでした。
昔、なぜ父はナイキの古いランニングを履いていないのか、リーバイス®の501®XXをはいていないのか、家に宝物がないことを嘆いた頃もありました。でも24年がたった今、僕は父のダサいセンスを誇りに思うし、このページが親孝行になったと思うとウルッともきます。とはいえこれを今履いても、やっぱりただのダッド。おしゃれな原宿をフィールドに生き、UOMOでも頑張っている若手スタイリストの庄将司くんにあげることにしました。大事にしてね。
Photos:Yuichi Sugita
Text:Masayuki Ozawa
(2018年7月号掲載)