第9回|現代社会では「休息」すらも「労働」の一部!?
1904年生まれで’97年に亡くなったドイツの哲学者。今回扱った『余暇と祝祭』(講談社)は絶版だが、森永エンゼルカレッジのウェブサイトで訳者らによる解説動画が見られるし、同名の論集『余暇と祝祭−文化の基礎−』(知泉書館)は入手できる。副読本として、J・マレシックの『なぜ私たちは燃え尽きてしまうのか』(青土社)も挙げておきたい。
「余暇を目当てに働いている」と聞いたら、ほぼ全員が「わかる」と思うだろう。水曜くらいには週末に焦がれているし、休日が楽しみで仕方がない。しかし、神学者のヨゼフ・ピーパーは、この冒頭の言葉が古代の哲学者アリストテレスに由来すると明かしながら、〈暇ある暮らしのために労働がある〉という発想を労働中心主義的に理解すべきではないと述べている。
現代人は、休息を労働からの解放ととらえている。今日の余暇は、再び労働に臨むための気力と体力を回復する「休憩」にほかならない。話題の軸は「労働」にある。そして、ピーパーにはこの労働中心主義が我慢ならなかった。仕事を意味する古代ギリシア語は「アスコリア」、直訳すると「暇がないこと」を意味する。大事なことに心を集中させる静かな時間である「スコレー」(暇)が暮らしの中心にあり、労働(=暇なし)は、それを奪う作業のことを指していた。かつて余暇にこそ尊重すべき価値があったが、今では主従が逆だ。
ピーパーは、労働を社会的な実益を目指すプロセスと定義する。現代人はみな「生産活動のプロセスに組み込まれ」た労働者であり、生活のすべてが生産=労働に捧げられている。仕事の能率を上げることだけでなく、意欲を高めることもまた労働の一部になっているし、「勉強は子どもの仕事」だとか、「結婚や出産、子育ては、人生の大仕事」いった文言はよく見かける。今や、暮らしのすべてが実益や効率のために動員されているし、その目的を外れる行動をして「仕事ができない」と思われることを現代人はひどく恐れている。
修道士や神学者が祈ったり、哲学者が観察や直観を働かせ思索したりする「観想」(コンテンプラチオ)のような、〈価値あること〉に心身を集中させることが大切であり、そのためには余暇が必要不可欠だとピーパーは説いた。彼の考えでは、私たちが誇りに思い、尊重している文化は、実益を求める労働とは無関係な領域、つまり静かな暇(スコレー)によって育まれたからだ。
有用性、実益や生産性からすると、無駄で無意味に思えることに集中するのが大事だと言われても、労働を主軸に生きる私たちにはピンとこないだろう。木が揺れるのを見ながらぼーっとしたり、一日中家で考えごとをしたりすると、時間を無駄にしたと感じるはず。しかし、無駄に思えるスコレーこそが大事であり、暇を奪う労働や雑事に気を散らされ、疲れさせられることを避けねばならない。実益や生産性に取り込まれずに「何もしない」ことこそが人生にとって最も大事だというピーパーの訴えは、現代社会の異様さをあぶり出す優れた指摘だと思う。
哲学者。京都市立芸術大学美術学部デザイン科で講師を務める。著書に『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』『スマホ時代の哲学』『鶴見俊輔の言葉と倫理』など。