第7回|どうやって炎上を受け止める? ハンナ・アーレントが考える「孤独」
ナチスに追われてドイツからアメリカに亡命したユダヤ系の哲学者。『人間の条件』や『全体主義の起源』などで知られる。アーレントの「孤独」概念については、現代のメディア環境(スマホやSNS)と結びつけながら詳しく論じたので、拙著『スマホ時代の哲学 失われた孤独をめぐる冒険』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)をご覧あれ。
今回は、ハンナ・アーレントの話。2013年には映画『ハンナ・アーレント』が公開され、国内でも行列ができるくらい話題になった。哲学者のマルティン・ハイデガーの高弟で、ある時期には不倫関係にあったというスキャンダラスなエピソードのおかげで知られているところもあるのかもしれない。
アーレントは、『責任と判断』や『全体主義の起源』などの著作で「孤独(solitude)」の重要性を強調している。ここでの「孤独」とは、「自分自身と一緒にいること」とか「一人の中に二人いる」ことだ。単に自問自答して悶々と悩んでいる、というようなイメージではない。そういう煩悶の中には自分一人しかいない。そうではなくて、自分の中に多様な自分がいて、喧騒の中で異質な考えをぶつけ合うようなイメージだ。アーレントはこれを「思考(thinking)」とも呼んでいる。
しかし、自分自身と一緒にいることができないこともあるし、孤独は得意ではないという人もいるだろう。そういうときに感じているものは、「寂しさ(loneliness)」と呼ばれる。寂しさは、他人に囲まれているのにうまくつながれないときほど強く感じる。例えば、SNSでいろんな他人の様子を知ることができるのに、自分は誰かとかかわっている実感を得られない、ということがあるだろう。自分一人ではいられずにスマホを触り、寂しさを埋めようとするが、そうすることによってかえって寂しさは加速する。
映画『ハンナ・アーレント』は、ナチスの戦犯であるアドルフ・アイヒマンの裁判を傍聴し、それについてのリポートをザ・ニューヨーカー誌に寄稿したことで強烈な非難を受け、彼女が懇意にしていたユダヤ系知識人たちから絶縁を突きつけられる様にも焦点を当てている。実際の記録映像を交えながら展開される映像は見応えがあるのだが、それよりもアーレントの喫煙シーンが頻出することに注目してみたい。
バルバラ・スコバ演じるアーレントは、窓際で遠くを眺め、あるいはタイプライターで原稿を書いている途中に、たばこの煙を吐き出してしばらく沈黙する。そのとき彼女は、思考の海に沈潜していて、かつての友人から非難されるだけでなく、世界中で彼女の文章をめぐって論争が行われるという「炎上」的な騒がしさを感じさせない静かさがある。このシーンが象徴するものは明らかだ。孤独である。
炎上や別離などの心痛む経験を受け止めるのに、そういう静かな沈黙とともに孤独をもつことが欠かせないだろうということは、スコバ演じるアーレントの横顔を見ていれば、大抵の人が納得できるに違いない。
哲学者。京都市立芸術大学美術学部デザイン科で講師を務める。著書に『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』『スマホ時代の哲学』『鶴見俊輔の言葉と倫理』など。