第5回|『MASTERキートン』でのピンチはブリコラージュ的発想で乗り越えられている!
クロード・レヴィ=ストロースは、20世紀の人類学者。ブリコラージュ論のある『野生の思考』(みすず書房)は難しいが、専門書ながら『悲しき熱帯』(中公クラシックス)のほうは、臨場感たっぷりに人類学の魅力と大変さを伝えていて読ませる。日本文化論集『月の裏側』(中央公論新社)は薄いし面白い。
『MASTERキートン』(小学館)の話をしよう。主人公は、大学の非常勤講師をしている考古学者でありながら、薄給ゆえに、大手保険会社の下請け調査員を務める平賀=キートン・太一。
一読して多くの人が心惹かれるのは、必要な道具をその場のありもので作り上げる場面ではないだろうか。キートンは、犯罪組織や荒くれ者の襲撃、吹雪や酷暑に対処して生き延びねばならない状況に追い込まれたとき、その場で手に入るものや背広のポケットにあるものを組み合わせて、状況を打開する道具を作り出す。
第一話「迷宮の男」では、石造りの朽ちた家々の多い場所で悪漢に襲われたとき、木製の台所用品と枝、セロハンテープを組み合わせて、即席で投石器を製作した。台所用品は調査対象の家から、枝と石は道端で手に入れ、セロハンテープは大学で書類を書いたときに借り、背広のポケットに突っ込んでしまっていたものを使っている。機転をきかせて、持ち合わせのものを組み合わせる姿は、見ていて楽しい。
キートンの姿を眺めていると、クロード・レヴィ=ストロースが提示した「ブリコラージュ」(器用仕事)という言葉を思い出す。ブリコラージュする人(ブリコルール)は、「ありあわせの道具材料を用いて自分の手でものを作る」ため、専用の道具や材料を使う玄人やエンジニアとは区別される。レストランの洗練された料理と、冷蔵庫のありもので作る家庭料理の違いだと思うと、わかりやすいかもしれない。玄人は、仕事の一つ一つに計画に応じて考案され購入された道具や材料を前提としているのに対して、ブリコルールは、その時々の限られた雑多でまとまりのない道具や材料で何とかする。
神話や呪術は、ブリコラージュの典型として挙げられる。神話はアクセスしやすい身近な対象を素材に、共同体の考えをつくり出す知的なブリコラージュだ。神話の背後には、具体的な感覚や想像のレベルで物事を分類・観察する思考が働いており、その思考の手つきは「ブリコラージュ」と呼ぶに値する。
ブリコラージュ論には、「科学」と「呪術/神話」から優劣関係を取り除きたいという意図があった。プロのコース料理は家庭料理よりおいしいかもしれないが、「プロのほうが偉いし正しい」とは言えない。家庭料理を作る人と、プロの料理人、それぞれ考え方は違うけど、どちらも等しく重要な「認識の様式」だし、人類には今なおどちらも重要だ。
だが、近代的な技術と即興のスキルに優劣関係がないなんてことは、『キートン』の読者なら十分心得ているだろう。持ち合わせの雑多な材料と道具だけでブリコラージュ的に対処し、悠々と乗り切るキートン。その爽やかな姿はブリコラージュの重要性を思い出させてくれる。
哲学者。京都市立芸術大学美術学部デザイン科で講師を務める。著書に『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』『スマホ時代の哲学』『鶴見俊輔の言葉と倫理』など。