第11回|カントの啓蒙論とPRの話って実は似ている!?
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カント(1724〜1804)は、東プロイセンのケーニヒスベルクに生まれ育った哲学者。文章「啓蒙とは何か」は、『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』(光文社古典新訳文庫)などで読むことができる。今回扱った嶋浩一郎さんの本は、『「あたりまえ」のつくり方:ビジネスパーソンのための新しいPRの教科書』(NewsPicksパブリッシング)のこと。
「啓蒙」は偉い人が下々に教えを垂れることだと思われているが、カントの『啓蒙とは何か』には真逆の定義があり、他人の指導なしに自分の知性を使用することが啓蒙だとされる。教師や後見人のような偉い人が指図する事態には、むしろ啓蒙が欠けている。カントは「自分の知性を使用する勇気をもて」と激励した。
先日、博報堂ケトルの嶋浩一郎のPR論を知り、PRと啓蒙が本質的に近いものではないかと考えるようになった。私見では、両者は公共性と自己啓蒙という特性を共有している。
まず、公共性。カントは所属集団に即して考えることを「私的」と呼び、そうした所属や権威に左右されずに考えることを「公共的」と呼んだ。彼にとって「自分で考える」とは、会社・国家・地域・家族などにおける地位や役割抜きで考えることを指す。平たく言えば、世界の誰の前でも妥当するように、自分を取り巻く狭い文脈だけでなく、もっと広範な文脈で妥当するように思考することである。
この広範さは、PR論にも見られる。「社会という背景の中で、商品がどういう存在だと語れることは、かなり重要なスキルです」とあるように、企業・業界などの狭い文脈でだけ通用する言葉遣いには問題がある。市場外のステークホルダーを含む、さまざまな立場の人に納得・共感してもらえる言葉で考え、伝え、対話していくことに、嶋はPRの本質を見ている。これは、「公共的」な思考を促す発想である。
第二に、自己啓蒙。カントは、個人が自力で啓蒙を実現するよりも、公衆が啓蒙し合うほうが実現可能性が高いと考えていた。公衆の中には、すでに自分で考える人々がおり、その人たちが自分で考えることの価値を伝えていくからだ。その言葉に人々が巻き込まれ、社会全体で啓蒙が伝播していく対話的なプロセスは、「公衆の自己啓蒙」と呼ばれる。
公衆の自己啓蒙モデルは、やはりPRにも当てはまる。個々人がひとりでに変わることに懸けて、企業や業界が適当にメッセージを発信しても仕方がない。むしろ、所属にとらわれずに新しい「あたりまえ」を伝播させ、その価値を喧伝する人を増やすことで、社会全体が変わっていく流れをつくるという発想をしたほうがいい。以上から、嶋はPR原則として「第三者を頼る」「複数のステークホルダーを巻き込んでいく」「対話し続ける」を挙げたが、公衆が互いを巻き込み、新しい価値観やアイデアを浸透させていく自己啓蒙に等しい。
啓蒙論とPR論の意外な近さを論じたが、納得してもらう必要はない。読者がそれぞれの本を読んで、自分で考えるべきことだからだ。
哲学者。京都市立芸術大学美術学部デザイン科で講師を務める。著書に『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』『スマホ時代の哲学』『鶴見俊輔の言葉と倫理』など。