2025.03.22
最終更新日:2025.03.22

嘘だとわかっているのに、ホラー映画はなぜ怖いの?【飲み会で使える! ポピュラー哲学講座|谷川嘉浩】

第12回|噓だとわかっているのに、ホラー映画はなぜ怖いの?

ノエル・キャロルプロフィール画像
ノエル・キャロル

1947年生まれのアメリカの哲学者。芸術系の話題を扱うジャーナリスト/文筆家だったが、のちに分析哲学の専門家になった。今回取り上げたのは、彼の『ホラーの哲学』(フィルムアート社)だが、『批評について』(勁草書房)も日本語に訳されている。ホラーの哲学入門としては、前掲書のほかに、戸田山和久『恐怖の哲学』(NHK出版)がオススメ。

 映画『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(1999)は、本当に怖い。だが、これほど恐ろしい映像でも観客はおとなしく画面を見ている。観客は振り向いて恐怖の元凶を探したり、それに許しを乞うたり、劇場から逃げ出したりしない。映画は噓にすぎず、噓にすぎないものから逃げ出す必要はないからだ。

「噓なんだから当たり前でしょ…」と思うかもしれないが、噓と知りながら感情を動かされることには、ちょっとしたパラドックスがある。友人が家族の余命が幾ばくもないと涙ながらに語り、あなたがそれに悲しみを感じた瞬間、「噓だよ」と言われたら悲しみは消えてしまうはずだ。それならば、本当か噓かによって感情は変わると考えたほうが自然ではないか。

 恐怖は危機意識と結びついているから、本当に恐怖しているなら直ちに危機を脱すべきだ。なのに、私たちはなぜかのんきにホラーを楽しむ。恐怖の原因が噓にすぎないと知りながら、その噓に恐怖しているというパラドックス。哲学には「恐怖の哲学」というジャンルがあり、その中にはこの逆説に取り組む議論もある。その中心人物が、ノエル・キャロルである。

 キャロルは、フィクションの感情的反応をめぐる逆説を、3つの命題を組み合わせて説明している。①私たちは本当にフィクションに心を動かされている。②私たちはフィクションで描かれるものが現実のものではないと知っている。③現実だと信じているものだけが、私たちの心を動かす。どの命題も単体では自然に思えるが、3つ組み合わせるとパラドックスが生まれる。

 ホラー映画の鑑賞体験を思い出せば、実際に感情が動かされていること(①)は否定しがたい。では、②と③のどちらを否定すべきだろうか。否定すべきだとして、どんな修正を加えれば常識と摩擦を起こさずにすむだろうか。「錯覚説」と呼ばれる立場は、フィクションを錯覚ととらえて②を否定し、ホラー映画を観るときは虚構と現実を混同しており、一種の現実を怖がっているのだと考える。だが、映画館での恐怖は行動に結びつかないが、そのほかの錯覚は実際の行動に結びつくかもしれない。錯覚説は、このズレを説明できない。

 キャロルは③を修正し、頭に浮かんだものを怖がっていると考えた(思考説)。現実にゾンビが誰かに嚙みついているから怖いのではなく、「ゾンビが肩に嚙みついた!」と思考したことが恐怖という感情を引き起こしているのだ。現実の対象ではなく思考の内容が恐怖を生み出す。そんな込み入った説明を考えなくても…と思うかもしれないが、単純に思える事態をちゃんと理解することは、単純にはすまないのだ。

谷川嘉浩

哲学者。京都市立芸術大学美術学部デザイン科で講師を務める。著書に『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』『スマホ時代の哲学』『鶴見俊輔の言葉と倫理』など。

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