第8回|「分かち合えない」ことを肯定する
グレアム・ハーマンは、1968年生まれのアメリカの哲学者で、ハイデガーやホワイトヘッドらから強い影響を受けた。『四方対象』や『思弁的実在論入門』などの本が翻訳されている(ともに人文書院)。今回のコラムを書くうえで、飯盛元章『暗黒の形而上学:触れられない世界の哲学』(青土社)が参考になった。ハーマン最初の一冊には、これをすすめたい。
人間関係について考えるとき、頭をよぎる作品がヤマシタトモコによるマンガ『違国日記』だ。6月には実写映画化された(瀬田なつき監督・脚本)。私のオールタイムベストの一つなので、かなり期待していた。11巻から成る物語を140分の映像に落とし込むためには、割愛と単純化が避けられないようで、よくある青春映画のパターンに回収されたきらいはあった。だが、高木正勝の劇伴と相まって、原作付き映画として出色の部類だったのは間違いない。
映画を観てあらためて心に残ったのは、主演の新垣結衣が、同居している親戚の少女・朝に対して、互いの関係を切断するような言葉を言うことだった。「あなたの感情も、わたしの感情も、自分だけのものだから、分かち合うことはできない」「朝の好きにしたらいい。あなたの人生なんだから」。後者は単なる励ましに聞こえるかもしれないが、ここにも「私にあなたの人生を決める権利がない」と突き放す、拒絶や切断のモチーフが隠れている。
ここに補助線を引いてみよう。哲学者のA・N・ホワイトヘッドの考えでは、あらゆる存在が、あらゆる瞬間に他のものを引き込む(=抱握)ことで自らを織り上げ、他の存在の構成要素にしており、自身もまた他の構成要素となる。互いを取り込み合う緊密な連絡関係によって、彼は世界を描いている。ただし、この抱握の働きは前意識的な認識であって、こうしたものが自覚されている必要はない。感銘を与えてくれた人の言動から大事なものを受け取り、自分の心に取り込む。誰かと握手し、抱き合うとき、その人の感情や高揚感が自分の中に入ってくる。そういうつながりを想像するといいだろう。
しかし、G・ハーマンは、こうした直接的なアクセスの途絶に注目し、「退隠」や「留保」と呼んだ。この世界にあふれる無数の存在は、そもそも「退隠」的働きを備えている。そう指摘することによって、モノたちの宇宙が、ホワイトヘッドの描くような濃密な関係性には回収しきれない過剰さを含み持っていることを示そうとした。いわば、世界を関係で回収できない謎に満ちたものにしようとしたのである。
彼の視点に立てば、『違国日記』の「分かち合えない」「あなたはあなただ」という趣旨の言葉を、単純な「拒否」とみなすのはもったいない。このドライな佇まいは、関係的な視点には回収しきれないプラスの何かを各人が(自覚せずとも)隠し持つことを示唆しているからだ。冷たい言葉は、それを口にする人に隠された、触れられない何かを匂いたたせる。分かち合えなさを素直に示す身ぶりの中に、他なる存在を尊重する見方が隠れているのかもしれない。
哲学者。京都市立芸術大学美術学部デザイン科で講師を務める。著書に『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』『スマホ時代の哲学』『鶴見俊輔の言葉と倫理』など。