第6回|小林秀雄よりも『ダンジョン飯』のライオスのほうがすごいワケ
小林秀雄は明治生まれの文芸評論家。文芸評論は、文学を語ることを通して哲学してきた日本の文化で、小林はその代表者の一人。入門としては、鹿島茂『ドーダの人、小林秀雄』(朝日新聞出版)、高橋昌一郎『改訂版 小林秀雄の哲学』(朝日新書)。変わり種だが、丸谷才一『完本 日本語のために』(新潮社)も面白い。
今回は、文芸評論家の小林秀雄より『ダンジョン飯』のライオスのほうがすごい、という話。「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない」など、魅惑的なパンチラインと論破風の断言からなる文体には、独特のグルーヴ感がある。今では悪文の代表例とされる小林だが、その文章にも光る視点はある。
「『万葉』の歌人等は、あの山の線や色合いや質量に従って、自分達の感覚や思想を調整したであろう」(「蘇我馬子の墓」)。「肉体の動きに則って観念の動きを修正するがいい」(「当麻」)。いずれも頭の中だけで抽象的に記号と戯れるのでなく、実際に事物とかかわる中で認識や感覚を訂正することの重要性を指摘するもの。実物からのフィードバックが大切なのは間違いない。
ただし彼自身は、さほど具体物からのフィードバックを尊重していない。歴史家が史料批判を通して明らかにする史実を「所謂真相なるもの」として退けつつ、自分が洞察する「文学の真相」は、史実より「もっと深いところに行こうとする」と誇る(「実朝」)。これでは、自分が至った認識(=文学の真相)と食い違う情報は無視し、自分の認識を訂正するつもりはないと居直っているのと変わらない。
それとは対照的に、九井諒子『ダンジョン飯』(KADOKAWA)主人公の一人、ライオスには、「調整」や「修正」の瞬間を飄々と楽しむ姿勢がある。ドラゴンやスライムなどの魔物が巣食うダンジョンに挑む際、節約を口実にしながら、ライオスは仲間に魔物食を提案した。仲間は食文化的に受け入れがたいと反発していたが、喫緊の課題があったことに加え、かねてより魔物食に惹かれていたライオスの異常な熱意に押され、なし崩し的に了承させられた。
ライオスは、魔物を実際に体験することで認識や感覚を訂正していく。キノコの魔物を料理する際に、切りやすい方向と切りにくい方向があると知って感激する。「このサソリの毒は食べても害はない」という本の知識をもとにかじりつくが、すぐに嘔吐したため仲間にドン引きされる。このように、料理や食事を通して自分から進んで事物にかかわり、認識に多様なフィードバックを得ようとしている。
ライオスの訂正が仲間との共同作業なので、コメディ的な楽しさを伴っていることも見逃せない。魔物の生態を知ったライオスは目を爛々とさせ、仲間に怖がられる。食事の際には食文化のギャップに慄いたり、顔をほころばせたりして、仲間と談笑する。これで楽しくないわけがない。具体的な体験を擁護しながら小林がそれを実践できなかったのは、彼がシリアスで孤高だったからではないか。孤高の小林を脇目に、仲間に恵まれたライオスは自分の認識が書き換わることをコメディのように楽しんでいる。
哲学者。京都市立芸術大学美術学部デザイン科で講師を務める。著書に『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』『スマホ時代の哲学』『鶴見俊輔の言葉と倫理』など。