「ヒップホップとは」を長谷川町蔵さんが初心者にもわかりやすく解説する連載の第5回目。今回は、世界中の映画ファンに衝撃が走ったウィル・スミスによるアカデミー賞授賞式でのビンタ騒動について。
今回のアーティスト&作品
『Lost and Found』
Will Smith
Interscope Records
今年3月のアカデミー賞授賞式は、ウィル・スミスのクリス・ロックに対するビンタによって、後味が最悪なイベントになってしまった。妻の名誉のために怒ったスミスがもっぱら批判されているアメリカの状況に違和感を感じる日本人も多いようだけど、彼がたたかれるのには主に三つの理由がある。
ひとつは相手がクリス・ロックだったこと。日本ではそれほど有名ではないけど、彼はお笑い界のカリスマなのだ。ふたつめは放送作家がジョークを書いた可能性。アカデミー賞のようなビッグイベントは、脚本にすべて書かれているケースがほとんど。ベテランのスミスがそうした事情を知らないわけがない。そして何よりもスミスがラッパー出身であることだ。ヒップホップは、ギャングたちが血みどろの抗争を減らすために、暴力の代わりに悪口で勝負をつけようとしたのが起源とされている。つまりスミスは、ラッパーとしての掟を破ってしまったわけだ。
スミスが、DJジャジー・ジェフを相方に、パーティや恋愛をコミカルに語るラッパー、フレッシュ・プリンスとして活躍していたのは’80年代半ばから’90年代初頭までのことだ。俳優に専念したのは主演ドラマ「ベル・エアーのフレッシュ・プリンス」がヒットして映画出演のオファーが押し寄せたからだが、ラッパーとして批判され始めていたのも大きい。銃やドラッグについて語るギャングスタ・ラップが主流となり、当時のスミスはヤワすぎるとディスられていたのだ。そんな彼が暴力で名を落とすとは…。
なおスミスは俳優として大成功したあと、本名で4枚のラップアルバムを発表している。2005年発表の目下の最新作は『ロスト・アンド・ファウンド』(遺失物取扱所の意味)と題されている。スミスよ、「悪口には悪口で返す」ラッパーの心意気を遺失物取扱所で取り戻して、再び這い上がれ。今はそう思わずにはいられない。
長谷川町蔵
文筆家。とてもわかりやすいと巷で評判の、大和田俊之氏との共著『文化系のためのヒップホップ入門1〜3』(アルテスパブリッシング)が絶賛発売中。