『ブルックリンでオペラを』(2023年)
――劇場最新作『ブルックリンでオペラを』です。王道のラブコメとは違ったアプローチだなと思いましたが、いかがでした?
ジェーン・スー(以下、スー):見応えのある作品でしたね! ジャンルとして、俗に言うラブコメ映画と捉えられるかどうかは別として。フフフフ。
高橋芳朗(以下、高橋):ロマンティックコメディとの触れ込みとはいえ、監督が『マギーズ・プラン 幸せのあとしまつ』(2015年)のレベッカ・ミラーということで一筋縄ではいかないものになるだろうとは思っていたけど…うん、想像以上だった(笑)。ただ、演出次第ではドタバタなラブコディとしても成立しそうなお話なんだよな。
スー:アン・ハサウェイの新作だ!と『プラダを着た悪魔』(2006年)や『マイ・インターン』(2015年)のノリを期待していくと、かなり喰らってしまうかもしれないね。もちろんいい意味で。
高橋:レベッカ・ミラーはキャリアを通して新しいラブコメディのかたちを模索してきたようなところがあるからね。そんなわけで、まずはあらすじを。「ニューヨークはブルックリンで暮らす夫婦、パトリシア(アン・ハサウェイ)とスティーブン(ピーター・ディンクレイジ)。人気精神科医のパトリシアは過剰なほどに掃除が大好きな潔癖症。一方、著名な現代オペラ作曲家のスティーブンは5年前から一曲も書けない人生最大のスランプに陥っていた。そんなある日、妻であり主治医でもあるパトリシアから精神療法の一環として愛犬と行く当てのない散歩に送り出されたスティーブンは、立ち寄ったバーで曳船の船長カトリーナ(マリサ・トメイ)と出会う。彼女に誘われて船に乗り込んでみると、予想だにしない出来事に襲われ…。この想定外の出会いと出来事はスティーブン、パトリシア、カトリーナの3人にどんな影響を及ぼすのか?」というお話。
スー:ラブコメ映画と言えば、群像劇でもない限り、ポスターを見た瞬間に誰と誰がくっつく話かわかるのが常。でも、今回まったくわからなかったんだよね。始まって20分経っても、話がどう流れていくのかまったく読めない。そこへ突然…! まさに、原題の『She Came to Me』(彼女が降ってきた)だね。
高橋:レベッカ・ミラーは『ヒズ・ガール・フライデー』(1940年)や『フィラデルフィア物語』(1940年)みたいなスクリューボールコメディからの影響を明らかにしている一方、演出自体はリアリスティックであることにこだわったともコメントしていて。だから打ち出し方はともかくとしても、映画の基盤になっているのは確かに王道的なラブコメディなんだよね。
スー:あらすじは紛れもなくラブコメディなんだよ。でも、わかりやすい起承転結にはせず、リアリティのあるディテール描写を丁寧に重ねることで、キャラクターやそれぞれの置かれた状態を立体的に描いているから見応えがすごいの。いちいち気まずい気持ちにもなるしね。物語を大きく動かすことになる存在のカトリーナが、ラブコメ映画を観すぎて“ロマンス依存症”だってところにも皮肉が効いていて笑ってしまったわ。それにしても、カトリーナ役のマリサ・トメイの好演といったら! なにもかも素晴らしかったよ。
高橋:まさにそのカトリーナが映画の肝だと思っていて。物語の推進力を担っている彼女の職業が大型船を牽引する曳船の船長だなんてものすごく示唆的じゃない? もはや時代遅れと思われているロマンスの力を信じている人物が物語を引っ張っていくわけだから、やっぱりレベッカ・ミラーとしてはロマンスの復権みたいなことを意図しているんじゃないかな。そう考えると、彼女が影響源としてスクリューボール・コメディを引き合いに出しているのもすごく合点がいく。
スー:なるほどね、そういう見方もできるか。
高橋:冒頭でスティーブンが犬を連れて散歩に出かけた直後に彼の「誰の人生もきっとオペラのように劇的だ」というモノローグが入るけど、それはレベッカ・ミラーが映画のテーマとして掲げている「誰の人生でも運命は思いのままに変えられる」と見事に重なり合うよね。このあたりからも純ラブコメ的な理想主義が汲み取れると思う。
――「運命は思いのままに変えられる」のメッセージはラストを観るとまさにと思いました。
スー:物語の軸は、パトリシアとスティーブンの夫婦。ふたりにはパトリシアの前夫とのあいだにできた18歳の優秀な息子ジュリアン(エヴァン・エリンソン)がいて、なに不自由のない生活を送っているように見える。でも、スティーブンは長い間スランプに陥っているし、パトリシアもどこか幸せそうには見えない。完璧な人生を送っているはずなのに、ふとしたことで壊れてしまいそうな脆さが感じられる。パトリシアは「誰かのために何かをしていたい」という強迫観念にも似た思いを抱えていて、いろいろなものを教会に寄附しようとするんだけど、私には「とにかく、なにも所有しない環境で暮らしたい」と切望しているように見えた。どうしようもなく縛られてしまうものをすべて喜捨したいという強い欲求。
高橋:パトリシアはジュリアンが独り立ちしたら引っ越してミニマルな暮らしをしたいとスティーブンに持ちかけていたよね。現在の住居を売り払って寄付したいとも。
スー:人生いっぱいいっぱいで、もう何も抱えたくないという欲求の現れに見えたのよ。「誰かのために」って言ってるのに、おかしいなって。で、スティーブンは予測不可能だったカトリーナとの出会いが大きなインスピレーションとなって、長いスランプから抜け出せる。でも、いまの生活を手放す気はさらさらない。あれは単なる事故のようなものだと思い込もうとして、また安全な生活に戻っていくべきだと考えている。
高橋:スティーブンにとって自分をスランプから救い出してくれたカトリーナはまさにミューズ的存在。カトリーナの船のクルーが彼女について「生まれつきの善人。傷つけたらいけない」と話していたこともあるし、やっぱりレベッカ・ミラーはカトリーナをなにか神聖なものの象徴として描いていると思うんだよな。
スー:一方で、わかりやすく不幸せな人は誰もいないのよ。ただ、ジュリアンと彼女のテレザ(ハーロウ・ジェーン)の若い二人以外はみんな停滞気味。テレザの母親マグダレナ(ヨアンナ・クーリク)も象徴的。パトリシアもマグダレナも再婚していて、失敗の後に手に入れた幸せではあるんだが、本当にこれでよかったと心底思っているようには見えないのよ。そこがまた苦笑いのリアリティ!
高橋:もやっとした停滞感が映画全体を覆うなか、マグダレナの夫でテレザの義父にあたるトレイ(ブライアン・ダーシー・ジェームズ)の登場によって徐々に不穏なムードが立ち込めていく。この陰湿な男、近年でも屈指の嫌なキャラかも(苦笑)。
スー:一番タチが悪い親の集大成みたいなところあるよね。娘への異常なまでの執着。所有物だと思ってるし、娘の10代の彼氏に同じ目線の高さで対抗していく恐ろしさ…。コンプレックスの塊みたいな中年男性。で、大人たちの人生はこのまま停滞路線かと思いきや、トレイの暴走が引き金となって、ジュリアン&テレザカップルが愛を貫くための荒唐無稽な計画に大人たちが全力で協力することになるんだけど、このあたりからの推進力には目を見張るものがあったね。誰もがハッキリと目的をもって、そこに向かっていくさま。
高橋:このクライマックスに向けての展開なんて、まさに昔ながらのロマンスを礼賛しているように思えて。そんななかでジュリアンとテレザのカップルを祝福するように歌われるのが、「陽気に行こう」の邦題で知られるアメリカのポピュラーソング「Keep on the Sunny Side」。歌詞の一部を抜粋すると「人生は暗く苦しい面もある 明るく陽が差す面もある 暗闇や争いもあるけれど 陽が差す面も見えてくる 陽が差す場所にいつでもいよう 陽が差す場所に 毎日助けてくれて この先照らしてくれるから 陽が差す場所にいよう 今日嵐が吹き荒れて 大切な希望がつぶれても 嵐も風もじきに過ぎ去り また陽が輝き照らしてくれる」。コーエン兄弟製作の映画『オー・ブラザー!』(2000年)でも使われていたから耳馴染みのある人も多いと思う。
スー:いい歌詞だよね。ぴったり。その後の展開は、かなりご都合主義ではあったけど(笑)。今作のメッセージは「誰の人生でも運命は思いのままに変えられる」だそうだけど、私には「自分で決めれば」という前提条件がつくように思えたわ。安定を手放す覚悟を自分で決めることが先決。大人が“安定しているけど幸せと言えるかはわからない環境”を手放すのってすごく勇気がいるよ。しかもロマンスのために! だって、安定を手に入れるために頑張ってきたんだもの。
――それをロマンスのために手放せるのは、ラブコメだからできることですね。
スー:そうね。現実には「これはなかったことにしよう」となる人のほうが多いんじゃないかな。だからこそ、気まずさも含めて大人に刺さる作品だよね。ドット絵くらいなのがよくあるラブコメの解像度だけど、その解像度を異様に上げて現実にはない話を写実的なディテールの積み重ねで描いたことにより、現実ならではの苦笑いがてんこ盛りだったよ。
高橋:ちなみにエンドロールで流れる映画の主題歌は、ゴールデングローブ賞歌曲賞にもノミネートされたブルース・スプリングスティーンと彼の妻パティ・スキャルファとのデュエット「Addicted to Romance」。スプリングスティーンはスティーブンとカトリーナの愛の顛末にインスパイアされて3日間で書き上げたそうだけど、彼が映画のどこに着目しているかは曲のタイトルに明白だよね。
『ブルックリンでオペラを』
監督・脚本:レベッカ・ミラー
音楽:ブライス・デスナー
出演:アン・ハサウェイ、ピーター・ディンクレイジ、マリサ・トメイ
製作:アメリカ
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