現在公開中の映画を、菊地成孔が読み解く。
『憐れみの3章』
映画を古代に戻し、未来に飛ばす!
観る者が試されるぶっ飛んだアート作
ヨルゴス・ランティモス監督の前作『哀れなるものたち』は寓意のあるSFですが、娯楽としても文芸としてもしっかり観られる傑作の一つでした。あれからわずか1年足らずでの新作。静かな映画ではない。むしろ、激しい。淡々と前衛作品を作ったとかではなく『哀れなるものたち』の逆像とも言うべき映画をものすごいエネルギーと早さで送り出した。今から思えば前作はあくまでもテストラン。本気はこっちです。
いつの時代にも登場する映画の改革者。とはいえ観る者が試される完全なアートが、ここまでしっかりとした予算で作られたことは類例を見ない。一時期のデビッド・リンチ。いや、それ以上。例えば音楽の傾き方。目の前にピアノがあって弾いている…よりも大きい音量。ピアノがもっている、人の神経を逆撫でする狂気の部分を多用している。女性の裸体を映しても萌えさせない。ゴダールがやろうとして、やり切れないまま死んだ、その意志を継いでいるとも言える。女優、男優がもっている性的な魅力を完全に去勢する。ルッキズムの解体だけでなく、ユーモアの質も画面の構築美もすごい。
3つの別な物語が、同一のキャストたちによって演じられる。しかし、これらエピソードの関係性を「読む」人はいるのか? リンチの映画には観客が因果律を見いだしたくなる誘惑があるが、この映画にはまったくない。あらゆる意味で「もう欲情してはいけないんだ」で出来上がっている。ストーリーにどんでん返しがあって、感情が共有されて動く…なんてことは絶対にない。反市場的なので普通なら疲れるはずなのに疲れない。タランティーノ的な爽やかさもある。旧来的な価値を脱構築する。脳が決めつけているものの鍵を一個一個外し、ほぐしていく。因果律を外し、性的なものの価値や物語の価値も外す。性自認の問題も扱い多様性もある。この「一座」には黒人もアジア人もいる。ランティモスはギリシャ人。全部がギリシャ悲劇にも見えてくる格調。ハリウッドでギリシャの感覚で映画を古代に戻しつつ未来に飛ばす。その両方があるぶっ飛んだクリエイター。これまでクリエイターと言われてきた人たちを吹き飛ばすものがある。すべてわからない。だがこれが映画だと思わせる。もう一回観たくなる。一回で満足する人は絶対にいないでしょう。(談)
『憐れみの3章』
監督/ヨルゴス・ランティモス 出演/エマ・ストーン、ジェシー・プレモンス、ウィレム・デフォー
9月27日よりTOHOシネマズ 日比谷ほか全国公開
アカデミー賞4部門に輝く『哀れなるものたち』のヨルゴス・ランティモスが、再びエマ・ストーン&ウィレム・デフォーと組んだ異形の3話オムニバス。「死」「飛ぶ」「サンドイッチを食べる」と題された各話には神経症的な共通項はあるものの、明確なつながりはない。依存、不信、追放。3楽章を演奏する同一キャスト陣は嬉々として演じており、余韻も異様で、新しい。
音楽家、文筆家、音楽講師。最新情報は「ビュロー菊地チャンネル」にて。
ch.nicovideo.jp/bureaukikuchi
本連載をまとめた書籍『クチから出まかせ 菊地成孔のディープリラックス映画批評』が9月26日発売。