まだ知らない体験や世界を読書は教えてくれる。嶋浩一郎さんの薦める今月の一冊は?
『美術の物語 ポケット版』

バスルームやトイレを
美術館に変える本
一冊に驚くべき情報量がコンパクトに詰まっています。装丁はまさに辞書。本の構成は2パートに分かれていて、前半は28章にわたりラスコーの洞窟壁画から20世紀のポストモダンアートまで各時代のアートの解説、後半部分は前半のテキストに登場した作品の写真が並びます。
とっつきにくそうな本だと敬遠しないでください。『美術の物語』というタイトルに偽りなし。それぞれの時代のアーティストが何を思ってその作品を作ったのか、前の時代のアートにどんな影響を受けたのか、彼らにとって大事なものは何か? 各章ちょっとした時間に読み切れるストーリーになっているんです。
聖書にはイエスの風貌や容姿についての記載はまったくないそうです。つまり描かれたイエスの顔はすべて後世のアーティストの想像の産物。そして時代の変遷とともに絵画に描かれるキリストの表情は驚くほど変化するんです。なぜ、あるアーティストは長髪の若々しいイエスを描き、あるアーティストは皺のある苦悩の表情をするイエスを描いたのか、そんな謎解きがページをめくるたびに現れます。
古代エジプト人はすべてのものを一番わかりやすい方向から描いたから、顔はだいたい横顔なのに、そこにある目は正面から見た形になっているとか、ビザンツ帝国の影響下のアーティストは親方の技術を真似ることが大事だったから、自分のクリエイティビティを発揮するなんて考えを寸分も抱かなかったとか、時代時代のアーティストのスタンスの違いもわかりやすく書かれています。
先月、この本を入浴するたびに1章ずつ読みました。湯船に浸かりながらちょっと人に話したくなる豆知識を手に入れて、週末に美術館に出かけたくなるわけです。ちなみに僕はトイレにも本を置いています。歴代トイレ本ベストは『奇妙な孤島の物語:私が行ったことのない、生涯行くこともないだろう50の島』。北極海の島など行くことのない島の美しい地図と、島民の生活が書かれています。
お風呂とトイレは10分間の至高の思索と空想の読書空間です。
『美術の物語 ポケット版』
エルンスト・H・ゴンブリッチ著
天野衛・大西広・奥野皐・桐山宣雄・長谷川摂子・長谷川宏・
林道郎・宮腰直人訳
河出書房新社 ¥4,389(刊行記念特価)
※2025年1月末から¥5,489(通常価格)
20世紀最大の美術家といわれる、E・H・ゴンブリッチの美術歴史書。1950年代に刊行され、増刷を重ね読み継がれている。登場する作品は必ず図版があるのがスゴい。個別アート作品のディテールの解説と大きなアートの潮流を行ったり来たりする解説のリズムが心地いい。黄色いスピン(しおりひも)が2本ついているのもしゃれている。解説パートと写真パートをそれぞれブックマークできる。
1968年生まれ。博報堂ケトルクリエイティブディレクター、編集者。本屋B&Bの運営にもかかわる。著書に『「あたりまえ」のつくり方』『アイデアはあさっての方向からやってくる』など多数。