まだ知らない体験や世界を読書は教えてくれる。嶋浩一郎さんの薦める今月の一冊は?
『ショートケーキは背中から』
どんな店にも
誰も知らない物語があるのだ
後輩が鎌倉に家を借りました。彼の誘いで長谷の洋食屋でランチをすることに。聞くところによるとその店は伝説の店で、昭和の時代、鎌倉の遊び人たちが夜な夜な集い、常連客目当てのタクシーが明け方まで店の前で列をなしていたといいます。かなりお年を召していますが、当時から店に出ていたマダムが、今でもランチと夜の営業をしています。噂に違わずグラタンも、オムライスも、懐かしくもモダンな味で大満足でした。
ところが、食後コーヒーを飲みながらメニューを見ているとあれ?っと思うことがあったんです。夜のメニューに突然トーストが登場するんです。トーストならモーニングでしょ! せめてランチのメニューでしょ!と思って二度見しましたが、やはり夜のメニューにトーストが。
マダムとの会話でこの謎が解けました。昔は昼まで営業し、その後その日の仕込みをしてから眠りについたそうで、つまりディナーはマダムにとっては朝ご飯だったんですね。その日は鎌倉滞在の時間を延ばして、ディナータイムに再来訪。夜のトーストを堪能しました。
飲食店にはその店ならではのチャーミングな物語があるんですよね。僕はそういうエピソードがある店が大好きです。
『ショートケーキは背中から』の平野紗季子はそんなお店の物語ハンターとしてピカイチの腕をもっています。この本の中にも、長年ビートルズを流し続ける店の話が出てきます。どんだけビートルズが好きなんだと店主に尋ねると、有線放送の機械が壊れて、ビートルズ以外のチャンネルがかからなくなってしまい、それから仕方なくビートルズを聴き続けていると判明。そんなトホホな店主がなんだかかわいく見えてきませんか?
誰も気づかない飲食店の愛すべき物語を探す平野紗季子センサーは今日も感度良好。彼女のエッセイはその店を訪れる時間をより濃密なものにしてくれます。「『ショーシャンクの空に』のラストシーンにいるよう」だとか、「まるでエレクトリカルパレード」などおいしいものを食したときの表現も独特で好きです。
『ショートケーキは背中から』
平野紗季子著
新潮社 ¥1,870
星付きの名店から、実家のような近所の食堂まで、20年以上にわたって貪欲に食べ続け、その体験を微に入り細をうがち言葉で紡いできた著者。その今のところの集大成がこの一冊。著者の視点はとてもユニーク。こんなふうにレストランを楽しむことができるんだというヒントが満載で、そんな店があったのかという店探しの嗅覚には脱帽。モスバーガーなどチェーン店への愛もあふれていて共感できる。
1968年生まれ。博報堂ケトルクリエイティブディレクター、編集者。本屋B&Bの運営にもかかわる。著書に『「あたりまえ」のつくり方』『アイデアはあさっての方向からやってくる』など多数。