まだ知らない体験や世界を読書は教えてくれる。嶋浩一郎さんの薦める今月の一冊は? 今回は、イラストレーターの沢野ひとしさんが、料理や台所用品、台所での過ごし方など、台所について語った『ジジイの台所』。
台所、それは瞑想の場であり、 創造の場、かつ反省の場でもある
イラストレーターの沢野ひとしさんが台所(キッチンでなく台所って表現するのがいい)について語った本だ。沢野さんにとって台所は茶室。そこには自分との対話の時間があって、そこで過ごす時間は男を成長させ、創造性を高める。クリエイティブな人間は台所に立つべし!という指南の書である。
自分もコロナ禍の間、台所で過ごす時間は長くなった。魚を配達してくれる豊洲の魚屋さんを知人に紹介してもらい、旬の魚をおろしたり、烏賊の塩辛なんかを作ったりしてみた。台所での時間は、料理の段取りを考えたり、魚にあう日本酒やワインを想像したりと、普段使わない脳味噌をつかい、外出が多くなった今も何かと台所に立つ機会は増えている。
昔、ある女性に「なんで、男の人は、ほとんど使わないのに、一つのことにしか使えないキッチン用品を買うのかしら」と質問されたことがある。確かに、うちにも買ったままほとんど使わない、鰹節の削り箱だとか、パルミジャンチーズ専用のおろし金だとか、そば打ち用ののし棒などが収納スペースに溢れている。料理に凝ると男は、ついついギアを揃えてしまう。台所師匠である沢野さんも警告している。「おやじは年代もののナイフや刃物に弱い」から気を付けろと。確かに、カウンターで料理人の包丁捌きを見たり、ソムリエがワインを抜栓するのを見ると、マイ包丁やマイソムリエナイフが欲しくなる。しかし、師匠は言う。ミニマリズムが一番だと。師匠もほとんど使わないイタリア製のパスタマシーンや、包丁に応じて揃えた砥石たちを処分していく。後ろ髪を引かれる思いだが師匠は言う、「いつか、妻に自分も捨てられる身なので、その身代わりだと思えばできる」と。この強い気持ちが大事。包丁もフライパンも香辛料も必要最低限のものに絞るのだ。そう、真のクリエイティビティは必要最小限のツールから生まれるのだ。よし、自分もやってみよう!
火を使う時は鼻歌は歌わない。出しっぱなしにしない。師匠の教えはシンプルだが台所の時間が確実に豊かになるはず。
『ジジイの台所』
沢野ひとし著
集英社クリエイティブ ¥1,760
「戻す場所を必ず決める」「収納には魔法はない」「一生ものに気を付ける」「台所の床は綺麗に」…。台所でどう過ごすべきか、台所用品の整理・収納の方法、料理を作るスタンスについて、うん、うんと唸ってしまうパンチラインが全編にわたって繰り広げられる。これをジジイのたわごとというなかれ! 巻末に収録された「座右の台所本・料理本」で紹介された20冊は厳選されていて魅力的だ。