2024.10.18

『サラゴサ手稿』|豪胆な青年軍人の度胸を問う六六日間の壮大な肝試し【BOOKレビュー 武器になる本、筋肉になる本|千野帽子】

読書をすることは自身の武器になり、血と肉にもなる。千野帽子さんお薦めの今月の一冊は?

『サラゴサ手稿』

『サラゴサ手稿』

豪胆な青年軍人の度胸を問う
六六日間の壮大な肝試し

 時は一八世紀前半。血気にはやる若き語り手は、近衛隊長の責務を拝命してマドリードに向かう途中、魑魅魍魎や山賊が横行する山中でお供とはぐれ、「出る」という噂の廃屋で異教徒の美人姉妹の歓待を受ける。彼女たちは〈おれ〉の母方、ゴメレス家の親戚だという。翌朝目覚めてみると、絞首台の下で、絞首刑になったふたりの盗賊の死骸のあいだに寝ていた。しかもこのあと〈おれ〉が出会った人物たちは、同じ体験をしたと口を揃えて言うではないか……。

 この幻想味あふれる怪奇譚から、名誉を重んじる豪胆な青年の試練が始まる。試練の部分はわりと最初のほうで、中盤からは出会う人物たちの語る奇想天外な物語が作品のメインディッシュとなる。その物語のなかでまた入れ子状にべつの物語が語られ、語りの階層は最大で五階建てにも達する。ある語りに登場した人物が、べつの語り手の語りにも登場し、当初バラバラに見えた物語群の帰趨はやがて、半村良もびっくり、西洋史の裏面を妄想するバロック的な巨大陰謀図式を徐々に明るみに出す。

 一九世紀初頭にポーランド貴族がフランス語で発表したこの伝奇小説は、枠物語のなかで武侠小説・ピカレスク・ドタバタ喜劇・ゴシックホラー・妖精譚と様式を切り替え、カバラ・幾何学・天地創造など突飛なモティーフを往還、畸人・スパイ・幽霊・謎の美女がスペイン・イタリア・北アフリカ・東洋・メキシコとグローバルに暗躍。読めば時空間の感覚が徐々に狂ってくる。

 昨年、岩波文庫から一八一〇年版の、端正な畑浩一郎訳が完結したところ。いっぽう創元ライブラリ版は、けれん味溢れる工藤幸雄訳。作者自身が削除したパートを含み、作中時間も五日多い六六日間。物語の配列も異なる。

 怖いもの知らずの青年軍人の冒険は、さながら若侍が一夏のあいだ肝試しを受ける『稲生物怪録』のような味わいがある。関係者勢揃いのエンディングには、ミュージカルのカーテンコールを思い出して笑っちゃった。いいものを読んだ。

『サラゴサ手稿』

ヤン・ポトツキ著 工藤幸雄訳
東京創元社 全3巻(各)¥1,320

作者は1761年ピクフ(ウクライナ領ピキウ)生まれ。スイスで教育を受け、オーストリア軍将校、祖国ポーランドの議員、サンクトペテルブルクでのロシア政府広報紙編集者を経て、歴史家・民族学者としてユーラシア各地を訪問。1815年に拳銃自殺。訳者は1925年大連生まれ。東大仏文科卒業後、共同通信社外信部、ワルシャワ大、多摩美大に勤務。『ブルーノ・シュルツ全集』翻訳で読売文学賞。2008年没。

千野帽子

文筆家、俳人。パリ第4大学博士課程修了。著書に『人はなぜ物語を求めるのか』『物語は人生を救うのか』(ともにちくまプリマー新書)など。訳書にトマス・パヴェル『小説列伝』(水声社)。

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