読書をすることは自身の武器になり、血と肉にもなる。千野帽子さんお薦めの今月の一冊は?
『自炊者になるための26週』
人生指南書としての料理本
ただ「買い物」の章は人を選ぶ
トーストを焼くことから説き起こす本書は、基礎調味料入門、蒸す・焼く・煮る・揚げる・切る・取り合わせる・混ぜるの原理、魚あしらい講座、季節の定番レシピなど既存の料理本に近い話題でも、ユニークな視点から示唆に富んだ記述が続きます。写真がいっさいなく、ワタナベケンイチの黒単色の挿画だけがあるのもいい。
さらに、抽象度が高いゆえに新たな視座を提示してくれる章がいくつもあります。カイロモン(同種の生物を引き寄せるフェロモンにたいし、異種の生物を誘惑する匂い)という概念を導入したり、精神科医・中井久夫の〈索引と徴候〉の二項を援用して〈風味〉概念を再構築したり。
自炊を始めたのが二〇代後半と遅かった僕も、いまは「主たる生計維持者」と「家族全員の食事・弁当担当者」を兼ねています。健康によく家計に優しい料理をどうすれば手を抜いて実現できるかというおかん的オペレーションで頭がいっぱいで、本書が〈自炊を成立させる定式〉として掲げる「感動>面倒」という状況を作れてなかったな、と思い知らされました。
自分や家族のために料理し、それを食べるのは、自分の生の重心を整え、ときにはその輪郭線を引き直すこと、もっと言えば能動的・自覚的にかつ楽しんで生きることなのだな、という感慨も湧いてきます。
著者はスーパーマーケットの価値を認めつつ、ふだんの食材購入の軸は特定の個人商店に置くこと(しかもその店舗を複数の候補から選ぶこと)を説き、なにを買うべきかについて店主の助言を求めることを勧めます。いまこんな理想の昭和的購買が可能なのは都市の中・小規模商業地区にかぎられます。
「ファスト風土化」した地方や郊外にはスーパーしかないのがふつう。また地価の高い住宅地のほうは、生活圏にスーパー以外には意識高いオーガニック青果店と熟成肉・高級肉専門店しかないなんてケースも。
聡明な著者がこの事実に気づかぬはずがありません。最初から本書は理想の昭和的購買が可能な地区に住む幸福な少数者に宛てて書かれたものなのでしょう。全二六章中「買い物」以外の二五章は、僕のような対岸の住人にも有益な指針となります。
『自炊者になるための26週』
三浦哲哉著
朝日出版社 ¥2,178
著者は1976年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻博士課程修了。青山学院大学文学部比較芸術学科教授、映画美学校批評家養成ギブス講師。著書に『映画とは何か―フランス映画思想史』(筑摩書房)、『サスペンス映画史』『食べたくなる本』(ともにみすず書房)、『LAフード・ダイアリー』(講談社)、『『ハッピーアワー』論』(羽鳥書店)、訳書に『ジム・ジャームッシュ インタビューズ』(東邦出版)。
文筆家、俳人。パリ第4大学博士課程修了。著書に『人はなぜ物語を求めるのか』『物語は人生を救うのか』(ともにちくまプリマー新書)など、共著に『東京マッハ』(晶文社)。