読書をすることは自身の武器になり、血と肉にもなる。千野帽子さんお薦めの今月の一冊は?
物語を憎み、抵抗せよ。 だがストーリーテラーを憎むな
人間は言語を使い、物語を作ったり受容したりする。けれどその実態は、けっして人間が物語をコントロールしているといった体のものではない。物語の構造が人間を操作するのだ。
文学理論の世界では、1970年代に物語論(ナラトロジー)という領域が発展し、今世紀に入って進化心理学の知見が流入、物語にかんする議論が激しくブーストした。ジョナサン・ゴットシャルは進化心理学を援用して文学を研究している。
人類進化史600万年の大半は狩猟採集生活で、農耕牧畜はラスト1万年の話。僕らの脳は少人数の共同体を維持するために「悪者探し」をしたがる仕様のままだ。グローバリズムは人類には早すぎた。
本書では戦争やテロ、キャンセルカルチャー、暴動、差別のベースに、人間を人間たらしめるある特徴の存在を指摘する。それは、ストーリー形式でしか世界を理解できない動物である、という特徴だ。
物語作者を追放すべしと主張したプラトン『国家』にはじまり、映像・文学作品、トランピズムやハッシュタグ・アクティヴィズム、コロナ禍などを論じる。人類はSNSで強化された物語環境で報酬系を直撃する「悪者探し」に溺れて憎み合い滅びるだろう。物語を憎んで人を憎まず、で行かなければならないと著者は言う。
僕も進化心理学を念頭に文学や物語について書くことが多い。本書を読みながら、知らないあいだに自著が書き直されていたのではないかという気が何度もした。「なるほど、こう書いたほうがよかったかも」と思うこともあれば、「こう書く勇気はなかったな」と思うこともあった。
本書が僕のもとに届いたのは安倍晋三元首相が狙撃され命を落として10日ほど経った7月中旬。ワイドショウもネットニュースも統一教会(旧略称)の「物語」で沸き立っていた。SNSでは「リベラル」で知的なはずの人たちが、今世紀初頭のネット右翼に20年遅れで追いついたかのような陰謀物語に興じていた。この書評を書いている現在は、東大教授がキャンセルカルチャーを擁護した恐ろしい動画が話題になっている。タイムリーな訳書出版だ。
『ストーリーが世界を滅ぼす
物語があなたの脳を操作する』
ジョナサン・ゴットシャル著 月谷真紀訳
東洋経済新報社 ¥2,200
著者は1972年生まれ。ニューヨーク州立大学ビンガムトン校で英文学を学ぶ。進化心理学系文学研究者。ワシントン&ジェファーソン大学特別研究員。訳書に『人はなぜ格闘に魅せられるのか 大学教師がリングに上がって考える』(青土社)。訳者は上智大学文学部卒業。訳書にマルクス・ガブリエル『わかりあえない他者と生きる』(PHP新書)ほか。
千野帽子
文筆家、俳人。パリ第4大学博士課程修了。専攻は小説理論。著書に『物語は人生を救うのか』(ちくまプリマー新書)、共著に『東京マッハ』(晶文社)などがある。