読書をすることは自身の武器になり、血と肉にもなる。千野帽子さんお薦めの今月の一冊は?
新しいことのインプットも必要だけど 手持ちの型・癖からの解放も必要
あなたはものごとを「前例から説明してしまう」ことはないだろうか。ここまで積み上げてきたものを手放したくない気持ちはないだろうか。その積み上げはサンクコストになっていないだろうか。
これまでに身につけたパターンで人生ここまでやってきた──その成功体験が人を縛ってしまう。僕自身も人の助言を受け入れるのが下手だし、環境適応の結果として得た「思考の癖・パターン」のせいで最近大きな失敗をして、人の信用を失う経験をしたところだ。
「人生100年」「生涯学習」などと言われるが、〈足し算の学びとキャリア〉には強い枷が生じる、と本書は警告する。サーフィン経験者がウィンドサーフィンを始めると上達が遅い、という話が印象的。
〈アンラーン〉という言葉は少し前から話題になっていたらしい。学ぶに否定の接頭辞unがついている。本書で知った(learnした)言葉だ。
やったことをもとどおりにする操作取消=「アンドゥ」や、ソフトウェアを削除してシステムを導入前の状態に戻す「アンインストール」を想起させる。でも人間はパソコンではないから、アンラーンは容易なことではない。
為末大さんのベストセラー『諦める力』(小学館文庫プレジデントセレクト)を思い出す。いわゆるビジネス書や自己啓発本界隈では、世間一般の通念に逆らった題をつけるケースが多いけれど、『諦める力』や『Unlearn』はそのなかでも強いフックだと思う。
本書は『法と企業行動の経済分析』(日本経済新聞出版社)で日経・経済図書文化賞を受賞した柳川範之・東京大学大学院経済学研究科教授と、400メートルハードル日本記録保持者・為末大の、対談ではなく〈二人の意見をまとめて記す〉形式で編集された。
感染症の世界的流行や戦争は、これまでの慣習を問い直す機会でもある。本書を読んで思ったのは、むしろ早急でラディカルなリセット願望に流されないためにこそ、立ち止まって荷物を点検するのがいいのかもしれないということだった。
『Unlearn(アンラーン)
人生100年時代の新しい「学び」』
柳川範之+為末大著 日経BP ¥1,760
柳川氏は1963年埼玉県生まれ。シンガポール、ブラジルで育ち慶應義塾大学経済学部通信教育課程卒業、東京大学大学院経済学研究科博士課程修了。東大大学院経済学研究科教授。為末氏は1978年広島県生まれ。法政大学経済学部卒業。世界陸上でハードル日本新記録を出し日本人初の短距離種目メダル獲得。五輪出場3度。現在は実業家・著述家。
千野帽子
文筆家、俳人。パリ第4大学博士課程修了。専攻は小説理論。著書に『物語は人生を救うのか』(ちくまプリマー新書)、共著に『東京マッハ』(晶文社)などがある。