大人の女性の心の機微や元夫婦のなめらかな会話など、細かな演出が秀逸すぎる! 前回に続き、今回もシニア世代のラブコメディを紹介します。
別れた夫と“二度目の”恋愛をしたら…その後はどうなる?
ーー『恋するベーカリー』(2009年)です。前回に続き、今回もシニア世代が主人公のラブコメ作品ですね。いかがでした?
ジェーン・スー(以下、スー):個人的には、好きなラブコメ映画トップ5にランクインする勢い。大人だからこそ、細部まで存分に味わえる作品でした。
高橋芳朗(以下、高橋):うん。これは年齢を重ねていくなかで機会あるごとに観直したい一本になりそう。では、まずはあらすじを簡単に。「3人の子どもを育て上げた母親であり、全米ナンバーワンの評価を受けた人気ベーカリーショップを経営する実業家でもあるジェーン(メリル・ストリープ)。10年前に弁護士の夫ジェイク(アレック・ボールドウィン)と離婚して以来シングルライフを謳歌していた彼女だったが、どこか満たされない思いを抱えていた。ジェーンはそんなある日、息子のルーク(ハンター・パリッシュ)の卒業式に出席するために滞在したホテルのバーで偶然ジェイクと再会。ひさしぶりに夕食を楽しんだふたりは酔った勢いで関係を持ってしまう。彼女はすでに再婚しているジェイクとの不倫に葛藤するなか、家の増改築を依頼した建築家アダム(スティーヴ・マーティン)の誠実さにも徐々に惹かれていき…」というお話。監督を務めるのは前回取り上げた『恋愛適齢期』(2003年)に引き続いてナンシー・マイヤーズ。その『恋愛適齢期』や『ホリデイ』(2006年)、それから『マイ・インターン』(2015年)もそうだったけど、彼女が撮った映画に出てくる女性主人公はみんな社会的に成功しているという共通点があるよね。
スー:そうそう。『恋愛適齢期』もこれも、「社会的に成功しても女性としてのゆらぎは残るし、大人だからといって常に正しい道を選べるわけではない」という真理と、「しかし、最終的に自分のお尻は自分で拭けるのが大人の女」という真理の両方を同時に示してくれるから、心強いんだよね。
高橋:なるほど、そういうアングルが入ってくるのか。
スー:ナンシー・マイヤーズって大人の女性の心の機微を描くのがうまい。「ある! わかる!」の連続だったわ。特筆すべきは、ドタバタ喜劇のわりに、主人公ジェーンの気持ちに寄り添ってていねいに物語が進んでいく点。
高橋:ほう。具体的には?
スー:ジェーンがこっそり、まぶたの弛みを取りに整形外科へ行くシーンがあったじゃない? 口では整形を否定しながらも、やっぱり自分の老いが怖くなって、なんやかんや言い訳をしながら相談する場面。しかも、歯医者に行くと偽ってね。「まぶたの下垂」ってのがまた、いいところを突いてるのよ。眼瞼下垂手術って保険が効く場合もあって、整形じゃない外科手術のギリギリのラインのところにあるわけ。そんなの中年以降じゃないと知らないよね(笑)。エクスキューズたっぷりにあそこから試そうとする気持ち、「わかる!!」って一瞬で掴まれました。
「なぜ、いつも受け入れる前に一度は断る? 君がいなくちゃ僕はダメなんだよ」ーージェイク
高橋:勉強になるなー。そこはさすがに素通りしてしまったよ(笑)。あとは?
スー:次女ガビー(ゾーイ・カザン)がひとり暮らしをするために家を出て行くシーン。本格的な孤独の始まりに寂しさを感じるものの、それを表には出せない母親の気持ちがよく表現されていたなと思う。細かいシーンで、ジェーンに共感させるのがうまい。
高橋:うん、あのくだりはなにげない一幕だったけど妙に印象に残ってる。またガビーが独り立ちする高揚感と友だちとのメールに夢中なこともあってジェーンの話をまともに聞いてないんだよね。一見なんてことはないやりとりなんだけど、ここのメリル・ストリープの演技で一気に彼女に感情移入しちゃったよ。子どもを送り出す母親の複雑な感情を完璧に表現してる。
スー:あれはメリル・ストリープの演技力の賜物ね。さみしさを隠す仕草から、長女の結婚、次女の旅立ち、長男の卒業と、子ども3人を立派に育てるのにすごく頑張ってきたことがしんみり伝わってくる。邪魔者扱いされても平気な顔したりね。ここで泣いちゃう母親もいるんじゃないかしら。自分を後回しにしてきたからこそ受け取れると思っていた恩恵を、子どもたちから十分に受け取れたと実感するより前に、子どもたちは旅立っていく。小さな場面ながら、そこを丁寧に描いていたのはよかったね。
高橋:だめ押しになっているのがルークの卒業式前夜、ジェーンはひさしぶりに子どもたちと水入らずで食事をしようとレストランの予約を入れているんだけど、ルークは友だちとパーティーの予定があって結局ジェーンひとり取り残されてしまうんだよね。しかもルークはジェーンにキャッシュカードをねだって奪い去っていくという。あれは切ないよ。
スー:そのせいで、すべての歯車が狂い始めるのよね…。そうそう、そのあとのジェーンと女友だちとの食事会のシーンは“女子会”としか言いようがない様子で、本当に楽しそうで最高。そこで、ジェイクとうっかり寝てしまったことを告白するじゃない?
高橋:うんうん。めちゃくちゃ盛り上がるんだよね。
スー:また友だちが芯食ったこと言うのよ。「(別れた夫と再び寝たからって)母親になっちゃダメよ」「料理も洗濯も、不本意なセックスもしなくていい相手なんてすばらしいわね」って。夫の世話に手こずってきた妻たちの本音が、あっけらかんと吐露される場面。にもかかわらず、ジェーンはどんどんジェイクの母親役を担ってしまう。ジェイクはジェーンに夢中に見えるけれど、それは現在のジェイクの妻アグネス(レイク・ベル)が子育てに忙しく、ジェイクのことをかまってあげないから。つまり、ジェイクは面倒を見てくれる都合のいい母親が欲しいだけなのよ。
「僕のほうが年上なのに? 年齢も君の魅力だよ」ーーアダム
スー:自分最優先な人って、だいたいああだよ。相手の気持ちを尊重しない。でもさ、腐れ縁だからこそ言わなくてもわかることもあって。ジェーンの新たな恋のお相手の建築士アダムが、ジェーンに手料理を振舞われるシーン! ラベンダーアイスクリームにまつわるやり取りは、神がかってたね。自分をよく知る男の居心地の良さを「眠れないのか?」のひと言で表現してる。あそこは是非、注目して観て欲しい!
高橋:観てる側としては「もうジェイクなんて放っておいてアダムにいっとけ!」とやきもきさせられるんだけどね。でもジェーンも昔のよしみでなし崩し的にジェイクに流れていってしまう。
スー:勝手知ったる仲のジェイクにホッとする気持ちはわかるんだけどさ、それは間違った安心なんだよね。だって、「知ってる」ことと「理解者である」ことは別だから。
ーーちなみに、男性の方が元妻や元彼女を「いいな」って思う瞬間ってなんなんでしょう?
高橋:それはやっぱりいまの妻なり恋人なりとの関係がうまくいかなくなったときなんじゃない? だからジェイクがそうであるように、その「いいな」という思いも基本的には身勝手で都合のいい行き当たりばったりな感情なんだと思うけどね。
スー:フフフ、それが現実かもね。10年前に離婚した元夫とうっかりセックスをしたらめちゃくちゃ良くて…って、ナンシー・マイヤーズは中年女に夢を見させる天才だわ。
高橋:セックスを終えたあとのふたりの表情が対照的すぎて笑える。また自己嫌悪に陥るジェーンに対する満足げなジェイクのニヤケ顔がめっちゃ腹立つんだ(笑)。だいたい妻の股間をガシッとつかんで満面の笑みで「ホームスイートホーム!」とか下品にもほどがあるよ!
スー:あれのせいでPG-15になったんじゃないのかしら(笑)。そうそう、具体的なセックスシーンは描かれないけど、セックスしたことを匂わせるスプリンクラーの描写には笑ったな。そしてここでもまた、女の気持ちが丁寧に…。昔の男にいまの裸を見せたくないジェーンの振る舞いね。あそこは多くの女性が頷く場面だわ。
高橋:裸を見られたくない一心でよろめきながらトイレに駆け込みつつ後ろ足でドアを閉めるメリル・ストリープの演技の生々しさったらないからね。
スー:若いころの自分をよく知る相手から、老けたって思われるのはキツいよ。だから、アダムの「年齢も君の魅力のひとつだよ」っていう言葉は救いよね。あのセリフはジェイクには言えない。いちいちジェイクに振り回されるジェーンが「好きになったらまた痛い目にあうのはわかってる」という感じで憔悴していくのが、観ていて辛かったなぁ。
「気がついたの。私たちは過去にすばらしい時をともに過ごした。いまはお互いに違う道を歩んでいると」ーージェーン
高橋:まさに原題の『It’s Complicated』の通り。ラストシーン直前のジェーンとジェイクの語らいに関しては、このふたりがいったいどういう境地にいるのかまだ理解しきれていないところがある。そして、そんな人生の複雑さにため息をつきながら迎える雨のラストシーン。これ、すごく優しい幕の引き方じゃない? ありそうでない後味の映画だと思うな。
スー:ほんとそうね。あのブランコのシーン、ふたりの会話がまた泣かせるというかなんというか。「君に謝るよ」「どこまで遡って?」「どこまで遡ればいい?」「かなり昔ね」とかさ。ふたりの会話のテンポは、映画の冒頭と変わってないわけ。だけど、ふたりの関係は決定的に変わっている。なにこの描写! この人と過ごす時間は楽しいけれど、もうそこには何もない(やり尽くした)ってことがハッキリわかるよ。20年前の元カレと飲んでるときに思う感情だね。
高橋:良い雰囲気のなかで和やかに話しているんだけど、確実に「終わってる」という。うん、ここは本当にすごい。あとはジェーンとジェイクの不倫が明らかになってからの子どもたちの葛藤も胸を打つものがあったね。またみんなめちゃくちゃいい子たちなんだよ。長女ローレン(ケイトリン・フィッツジェラルド)の婚約者、ハーレイ(ジョン・クラシンスキー)のラブコメ的なお人好しぶりもいいアクセントになってる。「僕もハグに混ぜてくれ!」って。
スー:あのシーンも最高! 大人になったはずの子どもたちが、子どものように3人でベッドに入って、慰めあってるの。子どもたちが過去に経験した辛さを想像して涙が出た。あの場面に会話を入れず、絵だけで表現したのは秀逸すぎる!
高橋:ジェイクが困惑する子どもたちに「パパが戻ってきたことがうれしくないのか?」ってうろたえていたけど、そんなに簡単な話じゃない。子どもたちは子どもたちでめちゃくちゃ傷ついてきたし、大きなものを乗り越えてきてるんだよ。
スー:ジェーンにとっては、子どもの信頼を裏切るのが一番つらいってこともわかっていない。なぜならジェイクは自分本位だから。ほんっと自分のことしか考えてない。そして、そのことにまったく気づいてない。
高橋:あそこは決定的だったな。そんなジェイクの一方、あの事態を受けてしっかり3人と向き合おうとするジェーンは素晴らしかった。
スー:ジェーンがジェイクに言う「私は、私たちの夫婦関係をどこかで諦めたけど、あなたはそうじゃなかった」ってセリフも印象的でした。息子のルークも「ふたりがハグしたりしているのを見たことなかった」って、結婚しているときの記憶がないって言っていて、象徴的だなと思った。ジェイクの浮気だけが離婚原因じゃないと、ジェーンは認めたのよね。
高橋:子どもたちも母親が「夫婦」をあきらめる過程をずっと見てきたということだよね。その重みを知っているからこそ、ジェイクを簡単に受け入れるわけにはいかないんだよ。この終盤はもはやラブコメを突き抜けていたね。
スー:ラブコメ映画であり、ラブコメ映画でなかったね。大人なら是非観て欲しい!
『恋するベーカリー』
監督:ナンシー・マイヤーズ出演:メリル・ストリープ、アレック・ボールドウィン、スティーヴ・マーティン
公開:2010年2月19日(日本)
製作:アメリカ
Photos:AFLO