まだ知らない体験や世界を読書は教えてくれる。嶋浩一郎さんの薦める今月の一冊は? 今回は、物理の先生二人組が日用品の働きを解き明かす、田中幸、結城千代子著『道具のブツリ』。
よい道具は 理にかなっているってこと!
大塚文香さんのハサミのイラストレーションが印象的で思わず手にとりました。そして縦に長い変形型のその本は、とても不思議な本でした。
著者は二人組の物理の先生。フォークやハサミなど日用品の働きを物理学的に解説してくれるんです。
サラダを作るとき、野菜の水をザルで切るじゃないですか。ザルで水切りができるのは、慣性の法則のおかげだとかね。ちなみに慣性の法則は移動している物体は、まっすぐ同じ速さで力が働かなくても移動し続けるっていうやつです。ザルによって野菜は止まるけど、水は移動し続けるから水切りできるんですね。
「物理」は「物」の「理(ことわり)」って書くけれど、美しい道具にはしっかり「理」があるんですね。
今年の夏、京都の綾部にある〈NOMI〉というレストランに伺う機会がありました。山奥にポツンとある店のシェフはなんと17歳から23歳の三兄弟。そして彼らの趣味は包丁研ぎ。もはや、なにそれという設定なのですが、事実は小説より奇なり。その店は存在します。
彼らは子どもの頃から包丁研ぎの魅力に取り憑かれ、日々最高の状態に研いだ包丁で近隣でとれるジビエや野菜を調理してくれるのです。研ぎたてのカンナで削った鰹節も、イノシシも美味しかったけど、最高だったのはキュウリ。包丁で切っただけなんです。でも、あのキュウリ、きっと自分が切られたことに気づいていないんです。あのみずみずしい断面は初めての体験でした。三兄弟は道具を知り尽くし、その機能を最大限引き出しているんですね。道具を知り尽くした人はその所作も美しい。がぜん年下のシェフの調理をみてそう思いました。
ちなみに、『道具のブツリ』にもきる道具として包丁が登場します。砥石で研ぐ行為を物理的に説明してくれるのですが、包丁の歯はツルツルよりザラザラのほうが切れやすいんですって。砥石はなめらかになってしまった刃先をザラザラにする道具なんですね。物理を知ると道具に対する愛着も生まれます。
『道具のブツリ』
田中幸、結城千代子著 大塚文香絵
雷鳥社 ¥2,420
高校の物理の先生である田中幸と、中学校や小学校の理科の教科書の執筆委員でもある大学非常勤講師の結城千代子という物理の先生二人組が、日用品の働きを解き明かす本。「ながす道具」「きる道具」「はこぶ道具」など、普段何も考えずに使っている日用品が、実はすごい働きをしていることを教えてくれる。読み終わる頃には、会社のデスクまわりの文房具が愛おしくなっているはず。