現在公開中の映画を読み解く連載「売れている映画は面白いのか?」。今回取り上げるのは、トッド・フィールド監督とケイト・ブランシェットがタッグを組んだ衝撃のスリラー『TAR/ター』。
『TAR/ター』
監督・脚本/トッド・フィールド 出演/ケイト・ブランシェット、ジュリアン・グローヴァー
5月12日よりTOHOシネマズ 日比谷ほか全国公開
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真性の音楽映画から驚愕のスリラーへ。 アートとエンタメを超える新時代映画!
このところのケイト・ブランシェットの絶好調の勢いそのままの傑作。これが彼女独特のキャリアの果てにあるのは間違いありませんが、クラシック界最大のレーベル、独グラモフォン全面協力による音楽映画である点も大きい。名声を極めた女性指揮者のすさまじい転落を描く作品ですが、グラモフォンは物語上設定されているものの、劇中では演奏されなかった曲まで収録した盤をリリースしています。このクラシック界の権威による映画界への異例のアプローチは、クラシック音楽が息を吹き返しているとも言えるし、断末魔の叫びとも言えるので困惑したほど。逆に言えば、それだけ新しい。
映画的には非常に丁寧に作られていて、クラシックの考証と録音に関しては、エンタメ映画の枠を超えたマジの音楽映画と言っていい。演奏シーンに時間をかけているし、インタビュー場面もすごく細かくガチで専門的なことを話している。そんな作品がまさかまさかのサイコスリラーに突入していく。家族ものの変奏としてオーケストラを扱った映画ならいくらでもある。しかし、こんな企画は初めてです。
揺るぎない頂点を極め、あらゆる賞に輝き、全方位的に完璧な女性でもあるベルリン在住の指揮者。彼女は自身が指揮するベルリンフィルで、マーラーの交響曲の中で唯一未録音だった第5番に挑む。そのリハーサルが延々描かれる中、主人公は何者かに追い詰められ、考えられないようなエンディングを迎える。崇拝と嫉妬が表裏にある音楽業界を緻密に描く脚本。主要な登場人物をほぼ女性に絞っている点も画期的。前半はスリラーの顔をしておらず、オーケストラ映画と言っていいほどの格式がある。前半と後半の両方とも完成度が高く、それぞれ分離していると感じさせるほどの作品なのです。
コロナ以後、映画が変わりつつあると感じます。20世紀の映画の文法は、壊されたり修正されたりしながらも保たれてきた。それをどうにかして変えようとしている人たちがいる。本作も、20世紀的な映画のオチにはならなかった。
ありきたりのどんでん返しではない、新しいラストに圧倒され、いまだに気持ちが追いついていません。感動でも、恐怖でも、ものの哀れでもない。アート映画にも、エンタメ映画にも振り切らない構造に「今」を見ました。(談)
菊地成孔
音楽家、文筆家、音楽講師。最新情報は「ビュロー菊地チャンネル」にて。
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